それは彼女の救いとなる


 ロマシア城内に与えられている自室に戻ったジェラは、ソファに横たわる男の姿に眉を顰めた。
「お帰り、我が主」
「…なぜここにいる?」
「固いことを言うな、我が主。私は古い友人に、久しぶりに会ってきたところなのだ。その後ですぐ、あのような石ばかりの地下室に戻るというのも味気ない話だろう?」
 ほっそりした優雅な体を長々とソファに伸ばした褐色の肌の男の答えは、からかうような口調だった。
「お前は…私に従うと、そう言ったな」
「従っているさ、我が主。何といっても貴女が私の封印を解いたのだ。しかし、【闇魔法】は今や、復活しつつある。我が主、貴女と貴女の主の、敵に対する優位は絶対的なものだ。何も心配することはない。あまり考え込まず、貴女ももっと楽しむといい」
 笑っているような、楽しげな声で魔族の男は答えた。

 嘘だ、とジェラは思った。確かにルイフィリアスというこの魔族の封印を解いたのはジェラだ。しかしこの男はジェラのことを『我が主』と大袈裟に言いながら、ジェラに従う気なんてありはしない。
 だが、それが当然だろうとジェラは思った。封印を解いたくらいで魔族に言うことを聞かせられるなんて、そんな風に思う者は愚かだ。
 ジェラが子供のころ、大道芸人の見せてくれる紙芝居や、吟遊詩人の語る物語で聞いた話はいつもそうだった。どんな理由であれ魔族の封印を解いた人類は、必ず魔族に弄ばれて悲惨なことになるのだ。
 ジェラは今では子供ではなく、物語と現実は別のものだと言うのは分かっている。しかし、もう大人になっているジェラは、闇の中から解放されたからといって、解放してくれた者の言うことを何でもききたくなるなんてことがあるわけがないというのも分かっている。
 わからないのは、ロマシア王は何を考えてジェラにこの魔族の封印を解かせたのかということだった。

 闇魔法は元々、魔族が編み出した技術だ。魔族の封印を解けば、闇魔法の力を再び得るために魔族は闇魔法を復活させようとするロマシアに手を貸すだろう。ロマシア王はそう言ってジェラに、ケルグに封じられていた魔族の封印を解くように指示した。そしてこの男は今、ロマシア王が言った通り、ロマシアに手を貸している。
 しかし、闇魔法が本格的に復活したら、その後は?封印を解いたくらいで、魔族を本当に従わせることなどできはしない。ジェラのことを「我が主」と呼びながらこの男は、ジェラに従う気など持っていない。ただ利害が一致するロマシアに手を貸しているだけだ。そして、利害の一致がなくなったそのとき、ロマシア王は魔族をどうするつもりなのだろうか。
(いや、本当は分かっている。)
 ジェラは内心で呟き、自分の思考を打ち消した。本当は分かっている。ロマシア王は闇魔法の力を全て手に入れて、人類を滅ぼすつもりだ。自ら人類を滅ぼそうとしているロマシア王が、魔族が人類に危害を加えることを気にかけるわけがない。
 人類を滅ぼすなど突拍子もない発想のようだが、闇魔法の強大な力を手に入れようとしているロマシア王ならそれは可能だ。
「闇魔法の力を用いて、愚かな人類を破滅に導く」
 王はそう言っている。クエードはそれを、人類のうちの愚か者、ロマシアと闇魔法の力に平伏して従おうとしない者を滅ぼすという意味だと思い込んでいる。だが実際には王は、ロマシアに従おうが従うまいが、人類は全て愚かだと思っている。
 封印を全て解き、闇魔法の力を全て手に入れれば、王は魔族を凌ぐ力を得るはずだ。力を手に入れ、人類を滅ぼすと共にルイフィリアスのことも殺すつもりなのだろう。
 ロマシア王の直属の部下である三魔士でも、王の姿を目にすることはあまりない。だがジェラは、王の翼を見たことがある。ドラゴンのような翼を持つロマシア王は、神龍族の血を引く者ではないかとジェラは思っている。三魔士の残り一人、シードも同じことを思っているらしい。
 もし王が神龍族の血を濃く引く者であれば、人類を滅ぼそうとしても不思議はない。

 わからないのは、そう思っていながらなぜ自分は、未だにロマシア王に従っているのかということだった。
 ジェラはまだ子供だったとき、前ロマシアを滅ぼし、国を打ち立ててからそんなにたっていなかった現ロマシア軍に売られた。売ったのはジェラの母親で、最初の頃はジェラは泣いてばかりいた。泣いていることや、言われた通りに魔法の訓練をしようとしないことを理由に、ジェラはしょっちゅう折檻を受け、食事を抜かれていた。寒い部屋でひもじい思いをして痛みと恐怖に体を強張らせながら、それ以上痛い目にあわされたくなくてジェラは必死に泣くのをこらえた。ジェラと同じように売られてきた魔法の才能がある子供達の中には、折檻を受けてひどく打ち据えられ、冷え切った部屋の粗末な寝床の中で死んでいった子供達が何人もいた。死ぬのは恐かった。
 やがて段々ジェラは泣く回数が少なくなり、言われたことに黙々と従うようになった。ジェラの魔法力が強くなるに従ってやらされる仕事は非人道的なものになった。ロマシア王に逆らった人々が集められている広場で、見せしめのために魔法で人々を焼いた。魔法を発展させる研究のためにエルフ族を集めるように命じられて、命じられるままにヴァン大陸の小さな村を襲い、村人をさらった。さらわれた人々は実験のために全員、命を奪われた。
 ジェラは自分が生き延びるために、人々を殺していた。
 しかしロマシア王は、人類を滅ぼそうとしている。滅ぼされる中には当然、ジェラも入っているはずだ。自分が生き残りたくて人を殺していたのなら、なぜ今、ジェラを殺そうとしている相手に言われるままに闇魔法の復活に手を貸しているのか。
 ジェラは今でも死ぬことに対する恐怖がある。しかしどちらにせよ死ぬことが分かってきて、段々全てがどうでもよくなってきている。
 死にたいとも思っている。しかし、ただ死にたいならすぐにでも簡単に死ねるのに、そうしないのはやはり死にたくないからだ。人を殺し続け、暗闇の中で見つめる炎の暖かさだけを友にしている、こんな孤独で虚しい自分のまま死にたくない。
 死にたいが死にたくない。生きたいが生きたくない。どちらにせよジェラの願いは適うことはない。
 ジェラが願っているのは、暖かさに包まれることだ。もうぼんやりとしか思い出せない、母親の暖かさと柔らかさ。
 スノー・リルの町で母はジェラを産んだ。未婚のまま子供を産み落としたことと、生まれた娘が物語のスノー・リルと同じ不吉な赤い髪を持っていたことを理由に母は、幼いジェラと共に町を追い出された。母はしばしばそのことでジェラにつらく当たった。お前が赤い髪なんかで生まれてこなければ、せめて男の子だったなら。そう言われて責められることはしょっちゅうだったが、それでもジェラが寒がっていると母は、ジェラを抱いて暖めてくれた。ロマシアの凍てつくような冬を十分に暖かく過ごせるほど母娘は豊かでなく、部屋に火の気が足りないのはいつものことだった。
 死ぬのなら母の胸で死にたい。ずっと前に自分を捨てた母の温かさを、今もジェラは求め願っている。それが手に入らないのは分かっているのに、ジェラは今も言われるままに闇魔法の封印を解こうとしている。行き着く先が破滅なのは分かっているのに。
 今すぐに生きるのをやめようとしないのは、これまで言われるままに人を殺して生きてきた惰性と、未練だ。生きること、温もりを得ることへの未練。愚かだと自分でも思う。

 机に向かうと、見覚えのない紙が置いてあった。手帳の1ページを破ったものらしい紙に書き込まれたクエードの字。ジェラへの伝言だ。ジェラは眉を顰めて背後を振り返った。
「私はずっとここにいたわけではない、我が主。私がここにきた時、既にそれは置いてあった」
 ジェラの方を見もしないでルイフィリアスは、片方の手をひらひらと宙に泳がす。
「……」
 無言でジェラはメモを見詰めた。
『炎のジェラに、研究所から協力要請あり。ロマシア王の承認済み。16:30までに研究所西棟第五実験室に出頭せよ』
 闇魔法も復活しつつある今頃、研究所が闇魔法の使えないジェラに対して何の用事だろう。どんな理由であれ、クエードの機嫌を損ねるようなものでなかったことだけは間違いない。メモに書かれている内容は簡潔で、事務的だ。もしクエードが腹を立てていたら、悪意のある表現の一つくらいは必ず入っている。

 ふと気配を感じて振り返ると、魔族がソファの上から、興味深そうにこちらを見ていた。褐色の肌に赤い目と茶色い髪、エルフ族によく似た尖った耳とすんなりとした手足と体を持つ男は、なんとなく猫科の大形の獣を連想させる。さしずめ黒豹か。
 そんなことを考えてしまったのは、ジェラが手元に置いていた猫の姿の魔生物がいなくなったばかりだからかもしれない。可愛がっていたはずのそれを、ジェラはカ・マヤバの神殿で見殺しにした。
 昔、最初に猫型の魔生物が足元に擦り寄ってきたとき、ジェラはそれに夢中になった。気に入ったのならやろうかと研究員に言われてジェラは大きくうなずいたが、次の日に魔生物は死んでいた。泣きながら研究員のところに冷たくなった体を抱いていったら、そういうものだとこともなげに言われた。まだ生成技術が未発達なため、魔生物は外界では長くは生きられないのだと言う。そのあとも何度か魔生物をもらったが、皆、すぐに死んだ。そのうちに研究員達は魔生物を生き延びさせる手段を発見したが、その手段とは他の生き物の命を奪って、魔生物の命とすることだった。ジェラが見捨てた猫の形の魔生物も、今はロマシアの敵であるハンター達と行動を共にしている狼の姿の魔生物のウルグも、三魔士がさらってきた人々の命を使って実験カプセルの外でも生きられる体を手に入れていた。
 生きるために人を殺し続けてきた自分と、大勢の人の命を使って生きられる体を手に入れた魔生物。もともと猫が好きなこともあって、黒猫の姿の魔生物をジェラは自分の分身のように思って大事にしていた。しかし最近、ジェラは全てがどうでもよくなってきている。戦いの気配に殺気立った魔生物があのハンター達に襲い掛かるのを止めようともせず、手助けもせず見殺しにしてしまったのも、その結果の一つだった。

 魔族がしなやかな身のこなしでソファから起き上がり、立ち上がった。歩み寄ってきた魔族は、ジェラが手にしている紙を指し示した。
「その伝言を書いたのは誰だ?」
「…クエードだ」
 ほう、と言ってルイフィリアスは笑った。
「あの男、内面は姿以上に醜いようだが、美しい字を書くのだな」
 確かに、クエードの書く字は綺麗だ。報告書などに丁寧に書かれた文字はまるで印刷物の活字のようだし、手帳を破った紙に書かれた、間違いなく適当に書いたのであろう字でさえ流れるような優雅さがある。その上に読みやすい。クエードはそれを十分に分かっていて、しばしば、文字には書いた者の品格が表れるのだと言って悪筆のジェラを嘲笑する。
『文字だけで人のことを推し量れなどしない。クエードの言うことなど気にするな』
 ジェラにそう言うシードは、彼をそのまま表したような、無骨だが読みやすく実用的な字を書く。
 ジェラは子供が書くような不恰好な文字しか書けない。
 ジェラの母は読み書きができず、子供の頃のジェラは読み書きを教わっていなかった。ジェラが字を教わり始めたのはロマシア軍に売られてからのことだ。ロマシア軍に売られてから数年後、高い魔法力を発揮し始めたジェラは他の子供達と区別され、更に能力を伸ばすべく、魔道書を読むために読み書きを覚えることを含めて色々なことを学ばされた。しかし厳しく教えられたのは読むことの方で、書く訓練はあまりしてこなかった。そして今でもジェラは子供のような字しか書けない。
 クエードは綺麗な字を書くが、クエードに品格が備わっているとはジェラは思わない。だが、美しい文字がそれを書いた者の品格の高さを表しているわけではなくても、不恰好な文字は書いた者の品格のなさを表しているというのはあり得るように思える。
 さりげない仕草で手を伸ばした魔族が、ジェラの手から紙を取り上げた。眉を顰めて見やっても、ルイフィリアスはまるで気にせず紙に書かれた文字を眺め、くっくっと笑う。
「文字は人を表す。…ふふ、よく言ったものだ」
「…さっきお前は、クエードの内面が醜いと言ったが」
「我が主、貴女は誤解している。文字だけでは何も分かりはしない。特にその者の内面や外見が美しいか醜いかなど、文字などから分かるわけがない。この文字からあの男のことが分かるのは、私がしばらくあの男を見ていたからだ」
 ルイフィリアスは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「…お前はこの字から、クエードの何がわかるんだ?」
「あの男は本来、大した魔法力を持っていないだろうということが、だ」
 楽しそうに魔族は笑った。
「エルフ族は人類としては比較的魔法に長けていると共に、低い魔法力を使って最大限に魔法効果を引き出す技術にも長けている。呪文の使用、魔法陣の刻印、その他にも色々ある。低い魔法力しか持たないのに高度な魔法を使いこなしたいと願うエルフ族は、魔法陣や呪文を書く技術を熱心に身に付けるものだ。わずかな形の歪みもない、完璧な魔法陣を素早く描く技術を、な。呪文も同じだ。唱えるだけより、魔法陣の上に呪文を書きつけた方が効力が高い。その場合は呪文は造形として完璧な文字で書かれなければならない。そうでないと呪文の効力を十分に引き出せないからな」
 手に持った薄い紙を、ルイフィリアスは指先で軽く弾く。
「これほど美しい字を書けるようになるまでに、どれほどの研鑽を積んだのか知らないが―――ご苦労なことだ。真に魔法力の高い者なら、魔法陣など書かなくとも精神集中だけで、どんな魔法陣でも及ばない効果を引き出すことができる。呪文や魔法陣を書く技術を必要としているという時点で既に、高い魔法力を持っていないことの証なのだが」
「………」
 ジェラは困惑していた。クエードは本来、低い魔力しか持っていない?
 クエードは愚かで嫌な男だが、シードに劣るとは言え十分に高い魔法力を持っている。それをジェラは知っているし、ロマシア王もそう思っているはずだ。そうでなければクエードは闇魔法の力を与えられる術者として抜擢され、三魔士の一人になってなどいないだろう。高い魔法力がなくてもいいのであれば、それこそクエード以外にいくらでもいる。
「混乱しているな?我が主」
 目を細めて、また魔族が笑う。とても楽しそうに。
「私が言ったのは、あの男の本来の魔法力は低いだろうということだ。今のあの男は人類にしてはそこそこ魔法が使えるようだが、それはおそらく努力で身に付けたものだ。生来のものではない」
「………」
「我が主。エルフ族の貴族や高位の魔道士の血筋の者というのは大体、我々【魔族】の血を濃く引いている。しかし、魔族の血を濃く引く家系に生まれても低い魔法力しか持たない者というのもいるものだ。
 高度な呪文や魔法陣を使って魔法力を高めるための教育は、簡単には受けられない。金と手間がかかる教育を受けてこられたのだからあの男もおそらく、エルフ族の貴族か魔道士の家の出身だろう。あの男はやたらと貴女が人間であることを蔑もうとするが―――自分の力は努力で身に付けたものではなく、エルフ族の自分には生まれつき魔法の才能があるのだと思いたいのだろうな。
 これで、わかっただろう?我が主」
「…なにを」
 そう問い返したジェラは、半ば呟くような小さな声しか出せなかった。
「あの男が、闇魔法の力を欲しがる理由だ。才能のない者がどんなに努力したところで、才能があって努力する者にかないはしない。ましてそれが魔力なら、才能のない者が努力をしてもすぐに限界が来る。だが、長いこと封じられていた闇魔法なら…誰かに負けることはない。闇魔法の使い手があの男だけなら、闇魔法で負けることはないだろう?」
 ジェラは黙っていた。何も言えなかった。クエードは確かに、闇魔法の力で負けることに過敏な反応を示す。特に数年前に死んだ、闇魔法の力に優れていた術者であるエリックのことは、未だに憎んでいるらしい。ただ単に魔法力で誰かに負けるのが心底嫌なら、通常の魔法力でクエードを凌いでいるシードのことも嫌っていてもおかしくないのに。だがクエードは、誰に対しても好意的ではないが、その中で特別にシードを嫌っている様子はない。エリックのことは憎んでいるのに。
 動揺を抑えようと、ジェラは自分に言い聞かせた。
 落ち着け、魔族が言っていることが本当だとは限らない。ただの当てずっぽうに過ぎず、本当はまるで違うのかもしれない。
 だが、本当だったら?
 クエードの字から何がわかるのかと、そう聞いたことをジェラは後悔した。嫌な奴だとしか思っていなかったクエードに対して、初めて、ひどく気のとがめる思いをした。もしこれが本当のことなら屈辱を嫌うクエードにとって、他人には死んでも知られたくないことのはずだ。クエードは嫌な男だが、誰かが心の中に抱いている決して人に見られたくない部分をいたずらに覗き見るなんてことを、その誰かがクエードでも他の誰でも、やっていいはずがない。ジェラは聞くべきではなかった。
「どうした、我が主?」
 相変わらず、楽しそうに魔族は笑っている。
 これまでジェラは、魔族を特に恐れてはいなかった。高い魔法力を持つのは分かっているので恐さはあったが、それはこの男の持つ力への恐怖で、死や暴力への恐怖と同一のものだった。魔族でも人類でも力は力なので、強力な力を持つ者が魔族だからと言って特に恐いということはなかった。
 しかし今、初めてジェラは【魔族】というものに対する恐怖を感じた。この男ならジェラが考えることをやめていた、忘却の彼方に押しやっていたようなことまで鮮やかな手つきで明かりのもとに引きずり出して、傷口をこじ開けて、その傷口に手を突っ込んで塩を擦り付けるようなことを易々とやるだろう。クエードの闇を引きずり出してみせたように。とても楽しそうに笑いながら。
 知らないうちに、手の平が汗ばんでいた。手を握り締め、ジェラはルイフィリアスを見つめた。
「…お前を、野放しにしておくわけには行かない」
「もう戻れと言うのか?我が主、貴女は人類にしては美しい姿形をしているが、優雅さに欠けるのが玉に瑕だ。焦らずとも貴女と貴女の主の望み通り、闇魔法は復活しようとしている。もっと心に余裕を持つべきだ」
 芝居のかかった、やれやれと言いたげな仕草で魔族は首を振ってみせる。
 嘘を言うなとジェラは思った。ジェラは本当は闇魔法の復活など望んでいないし、この男はきっとそのことを分かっている。この魔族なら。そしてまたジェラの心に、自分はなぜロマシア王に従っているのか、という思いが浮かんだ。
「…いずれまたお前には違う仕事が与えられる。お前こそ焦らなくても、外にならまた出られる。…来い」
 そう言ってジェラは身を翻し、部屋から出た。魔族が従わないようならシードとクエードに協力を求めて三人で封じるしかない。最悪の場合はロマシア王に直接協力を求める覚悟をしていたのだが、何を考えてかルイフィリアスは、あっさりとジェラについてきた。
「我が主。貴女の魔法には、自己流の癖がかなりあるな。―――そして、書く文字は子供の字のようだ」
 背後から、相変わらず楽しげな声でルイフィリアスが話しかけてくる。
「貴女はきっと、字を覚えるよりも自己流で魔法を使い始めるようになる方が早かったのではないか?魔法や字をちゃんと教わるようになったのは、そのあと貴女がいくらか成長してからのことだろう。違うかな?」
「………」
 ジェラは答えなかった。耳を貸すな。考えるな。聞いてはいけない、魔族の言葉など。

 ジェラが魔法を使えるようになったのは、まだ母と一緒に暮らしていた冬のことだった。娼婦をしていた母がある日、いつものように男を連れてきて、ジェラは台所で寝た。母が泊まりの客を連れてきたときはいつも台所で寝ているので、ジェラの寝床は台所に作ってあった。客がいないときは、母のベッドで二人で眠っていた。高い一晩分の金を払ってくれる泊まりの客がつくと母は嬉しそうだったが、ジェラは母と一緒の暖かいベッドで眠れなくなるのが嫌で、泊まりの客が来るのは嫌だった。
 その翌朝、母の作った朝食を振舞われた男は、部屋が寒すぎると言って魔法で部屋を暖めた。びっくりしたジェラが、どうやったらできるの、と聞くと男は、冬のロマシアでは人々があちこちで火を使っているので、そこらに漂っている炎の精霊を集めれば十分、部屋を暖めることくらいはできるのだと答えた。その日からジェラは、男が魔法を使っていた様子を思い出しては魔法を使おうと試みるようになった。できるわけがない、と言いながら母は、止めようともしなかった。
 そのうちにジェラは本当に、部屋を少し暖かくすることができるようになった。あの男がやったように春のような温度にすることはできなかったが、確かに、部屋の空気が少し緩んだ。母はそんなに驚きもせず、お前のおかげであったかくなったよ、と目を細めて笑ってジェラを抱きしめてくれた。
 ジェラが魔法を使えるのはきっと、父親に似たのだろうと母は言った。お父さんはどんな人だったの、と聞いたジェラに母はこう答えた。
「旅人だったよ。魔法が使えてね、強くて。…でも、赤い髪じゃなかったんだけどね…」
 そう言われてジェラは、それ以上父親のことを聞けなくなってしまった。ジェラが覚えている限り、母がジェラの父について話したのはこのときだけだ。
 それからもジェラは、一生懸命、魔法を使おうと試みた。春になり部屋が暖かくなったら、夏のような暑さにできないかとやってみたり、反対に寒くしたりできないかと頑張った。だがどんなに努力しても、室内の温度をほんの少し変える程度のことしかできなかった。
 一度魔法を見ただけで少しは魔法が使えるようになったのだから、ちゃんと魔法を教わればもっと色々なことができるようになるだろうと母は言った。
「魔法を教えてくれる先生を雇うお金があればねえ…。エルフェ大陸あたりの大きな町だと、女神教の教会があって、教会ではどんな子供にでも魔法や読み書きを教えてくれるって話だけど…。ここにもそういうものがあればねえ」
 ジェラの母は読み書きができず、故郷の町を追い出された身寄りも力もない女だ。幼いジェラと共にスノー・リルの町を追い出された母はその後すぐにハンターの男達に出会い、男達の夜の相手をすることと引き換えに守ってもらって旧ロマシアの城下町に辿りついた。幼い子供を抱える、身元のはっきりしない無学な女を雇ってくれる場所はなく、他にできる仕事がなかった母は娼婦になった。
 ジェラは自分も、将来は母親のように娼婦になるのだろうと思っていた。読み書きができなくて娼婦の母親以外に身寄りがなく、部屋をほんの少し暖める程度の魔法しか使えなくても、娼婦にならなれる。無学で魔法も使えず身寄りもいなくても娼婦にならなれるのだと、ジェラは母を見てそう知っていた。
 そしてジェラは大きくなってくるに従って、母の連れてきた客と顔を合わせると、容姿を褒められることが多くなった。可愛い、綺麗だ。そう男達に言われるとジェラは嬉しくなってにっこり笑った。きれいなのはいいことだ。大人になって娼婦になったとき、お客がたくさんつく。母が年をとってお客がつかなくなっても、ジェラにたくさんお客がつけば、今度はジェラが母を養っていくことができる。しかし、ジェラは嬉しかったがその度に母は、客が帰ったあとに厳しい顔をしていた。そしてある日、強張った顔をした母に手を引かれてジェラは、旧ロマシア城近くの兵士の詰め所に連れていかれた。
 母の手から離され、厳しい顔つきの男達に囲まれて、何が起こっているのか分からずジェラはうろたえた。母は男の一人から何かを受け取ると、男達とジェラに背を向けた。
 去っていこうとする母の背中に、慌ててジェラは叫んだ。
「お母さん!どこに行くの?!どこに行っちゃうの?!待って、お母さん、待って!!」
 母を追いかけようとしたが、男達にがっちりと腕を掴まれていて、どんなに泣いてもわめいても暴れても、万力のような手の力は緩まなかった。
 その時のジェラは、自分が売られたのだなどと思いもしなかった。ただ母がどこかに行ってしまうのだと思った。母はただ家に帰っただけで、自分は魔法力のある子供を求めていたロマシア軍に売られたのだと知ったのは、その数日後だ。その後しばらくジェラは泣いてばかりで、それから次第に泣かなくなった。
 母がロマシア軍にジェラを売ったのは、魔法の素質があるジェラのことを、貧しさのために魔法の能力を伸ばすこともできないまま娼婦にさせたくなかったからだったのだろう。成長し、世の中のことが次第に分かってくるうちにジェラはそう思うようになった。それを思うとジェラは気持ちが沈んだ。ジェラは母と一緒に暮らしていけるのなら、娼婦でもよかった。母がジェラを嫌いで、いらなかったのでないのなら、ロマシア軍になど売らないで一緒にいさせて欲しかったのに。
 もう大人になっているジェラは、娼婦はとても辛い、嫌な仕事だと知っている。増して、ジェラは異性というものがあまり好きではない。娼婦として働いていたら、さぞ辛かったことだろう。でもロマシア軍の魔道士として人を殺し続けるよりは、娼婦の方がずっとましだ。あのまま娼婦になれば、母と一緒に身を寄せ合ってひっそりと暮らしていけた。娼婦として生きるのがどんなに辛くても、きっと今よりは幸せだったはずだ。母と一緒にいられたなら。

 だがやはり、ロマシアの魔道士としてジェラは生きている。

「奴等が、来る」
 奴等というのはあのハンター達のことだ。最後の戦いへの突入を、シードはいつものように簡潔に告げた。
「奴等、思ったより腕が立つ。…だが、所詮はハンターだ。闇魔法の力に勝てはしない」
「…ああ、そうだな」
 あのハンター達は闇魔法には勝てなくても、ジェラやシードには十分に勝てるだろう。奴等の中には、『エリック』がいる。
 実のところ、闇魔法の復活を阻止してロマシア王を打ち砕くのは、そう難しいことではない。
 闇魔法の最高の使い手だったエリックは、名前と姿が変わっても、闇魔法の術者としての力はそのまま持っている。エリックは闇魔法の力を使ってシードやジェラとロマシア王を倒し、その後に自分ごと闇魔法を封印させればいいだけの話だ。エリックは死ぬことになるが、闇魔法を復活させることを拒んで死んだエリックのことだ。今回もきっと、そうするだろう。
 ロマシア王が何を考えているのか、ジェラの知らない勝算があるのかどうかジェラには分からない。だが少なくとも言えることは、ロマシア王は人類というものを甘く見すぎているということだ。
 人類というものは生き汚い。そして人類の未来はエリックの行動にかかっている。エリックが奴等の側にいて、エリックの死と引き換えに他の人類が生き続けることができるなら、泣いてでも脅してでも、エリックを責めて罪悪感を持たせることでも、どんな手段を使ってでもエリックが命を捨てて闇魔法を封印せざるを得ないようにさせるだろう。ジェラだって、ここまで人殺しを重ねて後戻りのできないところまで来てしまったのは、自分が死にたくなかったからに他ならない。今更生きる資格などないと思いつつ、それでもまだ生きているジェラは人類の典型だ。実に命に汚い。
 だが、それももうすぐ終わりだ。あのハンター達がロマシア城に攻め込んできた。ハンター達の一人、故郷の村の人々を殺されたあの青い髪のエルフ族の若い男がジェラを殺すだろう。
 世界は闇に飲み込まれなどしない。ただシードもジェラもロマシア王も、エリックも死ぬだけの話だ。
 シードの顔を見てジェラはふと思う。この男はなぜ戦っているのだろう。ジェラが考えている程度のことはシードにも分かっているはずだ。
 ジェラのように、虚無に取り付かれているのか。この男のことだから、ただ死ぬのでなく戦って死にたいからロマシア王に従っているのか。

 今のロマシア軍にいる兵士は大半が、ロマシア王の闇魔法によって作られた血と肉を持たない、命も感情もない魔道士だ。闇魔法を使っていくらでも生成できるらしいが、戦うことはできても思考する能力はないらしく、会話をする能力はない。昔はロマシア軍にも生身の兵士が大勢いたのだが、闇魔法の技術が発達し、魔生物の生成が盛んになるにつれて生きた人類の兵士は姿を消した。魔生物を実験カプセルの外でも生きていけるように改造するのに使われたのだろう。技術の発達と共に、魔生物の命を定着させるのに使われる命はエルフ族のものでなくてもよくなり、また、犠牲者の数も少なくてすむようになったが、それでも犠牲が必要なことに代わりはない。
 土の封印を解いたクエードは闇魔法の強大な力を制御できず、暴走した力に飲み込まれ、自滅して死んでいた。ルイフィリアスもあのハンター達によって再び封印され、他に話しかけてくる相手がいないジェラは最近シードとしか会話をしていない。嫌な奴でも、恐ろしい相手でも、いないよりはいてくれた方が気が楽になることもあるのだとジェラは知った。
 だが、ジェラはもう誰かに置いていかれることはない。もうすぐ、奴等が来る。ロマシア王の一番の側近であるシードは王を最も近くで守っているから、あのハンター達と戦うのはジェラの方が先だ。ジェラが死ぬのはシードより先だ。シードに置いていかれることはない。
 もうすぐ自分は死ぬ。自分の方がシードより先に死ぬのだから、シードに置いていかれることはない。
 その時のジェラにはそのことが、ひどく救われることのように思えた。



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 本家掲示板のクエード祭りに乗り遅れまくった話。時系列とかその他とかおかしい部分がいろいろあると思いますが、深く考えないで下さい…。